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大腸菌に潜む「マクスウェルのデーモン」の働きを解明―情報と熱力学の融合による生体情報処理の解析への第一歩―

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要点

  • 餌に反応する大腸菌の行動と細胞内に流れる情報量の定量的な関係を解明
  • 従来の情報理論ではなく物理学の新理論である「情報熱力学」を応用
  • 生体情報処理のメカニズムを人工情報処理に応用できる可能性も

概要

東京大学工学系研究科の沙川貴大准教授と東京工業大学大学院理工学研究科の伊藤創祐日本学術振興会特別研究員は、大腸菌が餌(えさ)に反応する際に生体内で情報が果たす役割を定量的に解明した。生体内の情報の伝達と活用は生命の維持に不可欠だが、従来の情報通信のための情報理論が単純には適用できないため、情報理論と熱力学を融合させた新しい物理理論である「情報熱力学」を駆使して実現した。

生体内では単一分子レベルで情報処理が行われ、その働きが19世紀の物理学者マクスウェルが考えた「マクスウェルのデーモン」[用語1]と類似していることに着目、「デーモン」についての物理理論である情報熱力学を適用した。

情報理論の枠組みを超えて生命の情報処理メカニズムを解明することは、生物物理学の大きな挑戦であり、この成果は生体内の情報処理メカニズムを解明するための物理学による新しいアプローチの第一歩といえる。

研究実施当時の所属は、沙川准教授が東大総合文化研究科広域科学専攻 准教授、伊藤学振特別研究員が東大理学系研究科物理学専攻 博士課程学生である。

研究の背景

絶えず変動する外界についての情報を取得し、それを活用することは生体システムの維持にとって不可欠である。たとえば、大腸菌が細胞内で情報をうまく処理することで、環境の変化に適応しながら餌を探す「走化性」[用語2]と呼ばれる現象が知られている。

このような生命の情報伝達メカニズムは、コンピュータによる人工的な情報通信とは異なっている。実際、私達の生活を支えるインターネットの通信では、高度な誤り訂正を用いて正確な情報通信を実現しているが、一方で生体内ではそのように複雑な誤り訂正が行われているわけではない。にもかかわらず、生体内では柔軟かつ正確な情報伝達が実現している。

このような生体内での情報伝達には人工的な情報通信のために発展した情報理論を単純には適用できない。したがって、従来の情報理論の枠組みを超えて生命の情報処理のメカニズムを解明することは、生物物理学の大きな挑戦だった。

近年、情報理論と熱力学を融合させた「情報熱力学」という物理学の分野が活発に研究されている。これは19世紀の物理学者マクスウェルが考えた「マクスウェルのデーモン」という物理学の大問題と密接に関係している。

この「デーモン」とは、分子を一つ一つ観測してその情報を使ってフィードバック制御をすることで、一見すると熱力学の第二法則を破ることができるように見える存在である。かつては、デーモンは理論上の仮説と考えられていた。

しかし近年、デーモンは実際に実験で実現されている。さらに、生体内での情報伝達には、デーモンと類似の働きが組み込まれている場合がある。とくに、大腸菌の走化性におけるシグナル伝達にはフィードバック制御[用語3]が組み込まれており、これがデーモンと類似の働きをしているとみなすことができる。

研究成果

研究グループは、この類似性に着目し、情報熱力学によって生体内の情報伝達のメカニズムを解明することに成功した。その結果として、大腸菌の細胞内を流れる情報量が、大腸菌の適応行動が外界からのノイズに対してどのくらい安定であるかを決める、という関係を明らかにした。

その際、情報量を定量化するために「移動エントロピー」と呼ばれる量を用いることが重要であることが分かった。さらに、大腸菌の適応のメカニズムは、通常の熱機関としては非効率(散逸的)だが、情報熱機関としては効率的であることを突き止めた。

今後の展開

これらの成果は、生体内でも定量化可能な物理量を用いて生体内の情報処理メカニズムを解明するための、新しいアプローチの第一歩になる。また近年、「マクスウェルのデーモン」が実験的に実現されていることから、生体内の「デーモン」のメカニズムを人工的な情報処理に応用できる可能性がある。

大腸菌のシグナル伝達の模式図。餌となる化学物質からの入力情報が伝えられ、それが受容体のメチル化レベルにいったん記憶されたあと、フィードバックによる安定化が行われている。
図1.
大腸菌のシグナル伝達の模式図。餌となる化学物質からの入力情報が伝えられ、それが受容体のメチル化レベルにいったん記憶されたあと、フィードバックによる安定化が行われている。
大腸菌のシグナル伝達の情報熱力学的な効率のシミュレーション結果。入力信号に対して、情報熱力学的な効率を表す性能指数を示している。性能指数が1に近いほど、通常の熱効率と比べて情報熱力学的な効率が高くなる。
図2.
大腸菌のシグナル伝達の情報熱力学的な効率のシミュレーション結果。入力信号に対して、情報熱力学的な効率を表す性能指数を示している。性能指数が1に近いほど、通常の熱効率と比べて情報熱力学的な効率が高くなる。

用語説明

[用語1] マクスウェルのデーモン : 熱力学のもっとも重要な法則は、熱力学第二法則である。これは熱機関(エンジン)によって使えるエネルギーの上限を決める法則で、とくに第二種永久機関(一様な温度の熱源から仕事を取り出して、他に何もしないような熱機関)は不可能であることを示している。しかし、19世紀の物理学者マクスウェルによって、「マクスウェルのデーモン」がいれば第二法則が破られるのではないか、ということが示唆された。ここでデーモンとは、分子を一つ一つ観測し、その観測結果の情報を使って分子を操作する存在である。現代的観点から言うと、これはフィードバック制御の一種であると言える。19世紀当時、デーモンは理論上の仮説に過ぎず、一見すると物理学の根本原理と矛盾しているので、「パラドックス」であると考えられた。しかし近年の技術の進歩により、マクスウェルの提案から150年近くを経て、実際に実験でデーモンを実現することができるようになった。また、「情報量」の概念を熱力学に取り入れることで、デーモンが熱力学第二法則と矛盾しないことも明らかになった。これらの研究成果は、情報処理過程にも適用できるように拡張された熱力学である「情報熱力学」と呼ばれる分野の発展につながっている。情報熱力学によって、分子レベルでの情報処理をする際のエネルギーコストを明らかにすることができる。本研究では、情報熱力学を生体内の分子レベルの情報処理に応用した。

[用語2] 大腸菌の走化性 : 大腸菌は餌(リガンド)が濃い方向に向かって進む性質がある。リガンドは大腸菌の受容体に結合し、大腸菌の細胞内で化学反応を引き起こす。その結果、鞭毛モーターが回転し、大腸菌は餌の方向に進む。

[用語3] フィードバック制御 : 大腸菌のシグナル伝達において、餌の濃度が受容体のメチル化レベルにいったん記憶され、その情報に基づいて大腸菌の細胞内の化学反応が起こる。これは「測定結果に基づいて制御する」というフィードバック制御の一種と言える。ここで受容体のメチル化レベルが、「マクスウェルのデーモン」の役割を果たしている。

論文情報

掲載誌 :
Nature Communications
論文タイトル :
Maxwell's demon in biochemical signal transduction with feedback loop
著者 :
Sosuke Ito and Takahiro Sagawa
DOI :

問い合わせ先

東京工業大学大学院理工学研究科物性物理学専攻

特別研究員 伊藤創祐
Email : sosuke@stat.phys.titech.ac.jp
Tel : 03-5734-2073

東京大学大学院工学系研究科物理工学専攻

准教授 沙川貴大
Email : sagawa@ap.t.u-tokyo.ac.jp
Tel : 03-5841-6809

東京工業大学 広報センター

Email : media@jim.titech.ac.jp
Tel : 03-5734-2975 / Fax : 03-5734-3661


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