硫黄ナノクラスターの“精密”質量分析法
―分子カプセルの利用で、環状硫黄の安定化と選択的合成を達成―
要点
- 分子カプセルの包み込みによる硫黄ナノクラスターの新しい質量分析法を開発
- カプセル空間内で硫黄ナノクラスターの顕著な安定化と選択的合成に成功
概要
東京工業大学 科学技術創成研究院 化学生命科学研究所の松野 匠大学院生(修士課程2年)、山科雅裕博士研究員と吉沢道人准教授らは、ナノサイズの硫黄クラスターを分子カプセルに包み込むことで構造が安定に維持され、汎用の質量分析装置を使ってその質量数を正確に決定することに初めて成功した。また、分子カプセルの内部空間で、高分解性の硫黄ナノクラスターの安定化と光照射による選択的なクラスター合成にも成功した。本研究成果は、種々の無機ナノクラスター(材料や触媒など)の「精密分析法」と「選択的合成法」の新提案であり、幅広い応用研究が期待される。
有機および無機化合物の構造決定において、「質量分析」は重要な役割を果たしている。とりわけ無機クラスターは、他の分析法では十分な構造情報が得られないため、質量分析が最重要の手段となっている。自然界に豊富に存在する硫黄(S)は、種々の大きさの塊(クラスター)を形成する。しかしながら、それらの無機クラスターは、これまでの質量分析条件では容易に分解するため、構造決定が困難であった。本研究では、中性の硫黄ナノクラスターの質量数を決定する新手法の開発に挑戦した。同グループが開発したイオン性の分子カプセルは、水中で2分子の環状S8およびS6クラスターを定量的に内包した。内包された硫黄ナノクラスターは顕著に安定化され、それらの質量数を汎用の質量分析装置(ESI-TOF MS)で精密に決定することに成功した。さらに、光照射により、2分子のS6クラスターから1分子のS12クラスターへの変換反応が、カプセル内で高選択的に進行することを見出した。分子カプセルに秘められた新しい機能を開拓した。
これらの研究成果は、同研究所の山元公寿教授グループ(無機化学)との共同研究によるもので、Springer NatureのNature Communications誌のオンライン版に、平成29年9月29日10時(英国時間)付けで掲載されました。
研究の背景とねらい
質量分析[用語1]は、有機・無機化合物や生体高分子(タンパク質など)の構造決定における重要な手段である。その中でも、複数の原子の集合体である無機クラスターは、紫外可視吸収分光計(UV-vis)や核磁気共鳴装置(NMR)などの汎用の分析法では十分な構造情報が得られないため、質量分析装置による質量数の決定は必要不可欠である。しかしながら、無機クラスター、とりわけ、電荷を持たない中性の無機クラスターは、質量分析で必須なイオン化の過程で分解するため、その正確な質量数や純度を決定することが困難であった(図1a左)。無機クラスターの代表例である硫黄(S)は、様々な大きさの環状ナノクラスターを形成し(その同素体[用語2]は30種類以上)、特異な物理的および化学的性質を有する(図1b)[文献1]。しかしながら、最も安定な環状S8クラスターであっても、これまでの質量分析条件では分解するため、本来の質量数を決定することは出来なかった。また、多くの硫黄クラスターは不安定で室温でも容易に分解するため、それらの合成や精製には熟練の技術が必要であった。
- 図1.
- (a)無機クラスターの質量分析における問題点(左)と本研究の戦略(右)。(b)硫黄ナノクラスターと(c)分子カプセル1の構造と空間充填モデル。
今回、イオン性の分子カプセルに中性の硫黄ナノクラスターを丸ごと包み込み、外部環境から隔離した安定化状態で汎用の質量分析を行うことで、狙いとするクラスターの質量数を厳密に決定することに成功した(図1a右)。また、カプセル内で、選択的な硫黄ナノクラスターの合成が出来ること明らかにした。これまでに報告した分子カプセルの合成有機分子や生体関連分子[文献4]に対する機能に加えて、本研究で、無機ナノクラスターに対する新しい機能を開拓した。
研究内容
硫黄ナノクラスターの内包と質量分析
分子カプセルとして、同研究グループが6年前に開発した複数のアントラセン環[用語3]を含む球状ナノ構造体1[文献2,3]を用いた(図1c)。硫黄ナノクラスターのカプセル化は、室温・大気下で、簡単な方法でできる。過剰量の環状S8クラスターの黄色固体をカプセル1の水溶液に加え、室温で30分程度撹拌すると、水に溶けないS8クラスターは疎水効果[用語4]によって、自発的かつ定量的に分子カプセルに内包された(図2a)。内包体の構造はNMRおよびX線結晶構造解析で決定した。結晶構造解析から、2つのS8クラスターが積み重なるようにカプセル内に取り込まれ、しかも、カプセルの8つのアントラセン環によって外界から隔離されていることが明らかになった。
- 図2.
- (a)分子カプセル1による2分子の環状S8クラスターの内包とそのX線結晶構造。(b)S8クラスター単独の質量分析(MALDI-TOF MS)スペクトルと(c)内包体の質量分析(ESI-TOF MS)スペクトル。
環状S8クラスターはその同素体の中で最も安定であるが、これまでの方法で汎用の質量分析装置(MALDI-TOF MSおよびESI-TOF MSなど)を利用すると、分解物のS3+やS4+イオンなどに由来するピークのみが観測された(図2b)。一方、カプセル化された同クラスターでは分解は起こらず、元の構造を維持した状態で、目的の質量数に由来するピークが明確に観測された(図2c)。すなわち、硫黄ナノクラスターの精密な質量分析に初めて成功した。
高分解性の硫黄ナノクラスターの安定化
環状S6クラスターは通常、その環ひずみにより容易に分解する。実際に、S6クラスターの溶液を室温で放置すると1時間以内に分解し、S8クラスターや硫黄オリゴマーが生成した。一方、S8クラスターと同様の操作でカプセル1内に取り込まれた2分子のS6クラスターは(図3a、中央)、同条件下で700倍以上も安定に存在した。また、カプセル化により通常の質量分析条件でも分解が抑制され、S6クラスターの質量数を厳密に決定できた。
- 図3.
- (a)分子カプセル1による環状S6クラスターの内包と光照射による環状S12クラスターの合成。(b)S12クラスター内包体の計算による最適化構造。
カプセル内での硫黄ナノクラスターの合成
分子カプセル1内で、2分子から1分子の硫黄ナノクラスターへの合成に挑戦した。S6クラスターを2分子内包したカプセル1の水溶液に、極低温下で可視光を照射すると、分子内S-S結合がラジカル的に開裂し、分子間で再結合することで、環状S12クラスターが選択的に生成した(図3a、右)。生成物の構造は、NMR、ラマン分光、質量分析によって決定した。内包体の計算構造から、球形状のS12クラスターはカプセル1の球状空間に適合していることが分かった(図3b)。すなわち、分子カプセル内での硫黄ナノクラスターの合成に初成功した。
今後の研究展開
本研究では分子カプセルを利用し、硫黄ナノクラスターを内包することで安定化し、質量分析装置でその質量数を精密に決定する方法を開発した。ここで用いた分子カプセルは、合成と取り扱いが容易であり、汎用の質量分析装置を用いて、微量分析が可能である。今後、この方法による既存の無機ナノクラスターの精密質量分析と共に、新規の機能性ナノクラスターを創製するための質量分析法としての利用が期待できる。
用語説明
[用語1] 質量分析 : 高真空下で分子やクラスターなどをイオン化することで、その質量数を決定する構造分析手法。代表的なイオン化法に、田中耕一博士(2002年ノーベル化学賞受賞)が開発したレーザー照射を利用するMALDI法や、溶液をスプレー噴霧するESI法などがある。
[用語2] 同素体 : 同一元素から構成される分子で、結合形式や原子配列が異なる。同素体同士は互いに物性が異なる。炭素(黒鉛とダイヤモンド)など。
[用語3] アントラセン : 3つのベンゼン環を連結した形のパネル状有機分子。
[用語4] 疎水効果 : 油と同様の性質をもつ化合物またはその部位は、水中で互いに集まる(引き合う)現象を示す。
[文献1] R. Steudel, B. Eckert, Top. Curr. Chem. 230, 1–79 (2003).
[文献2] N. Kishi, Z. Li, K. Yoza, M. Akita, M. Yoshizawa, J. Am. Chem. Soc., 133, 11438–11441 (2011).
[文献3] M. Yamashina, Y. Sei, M. Akita, M. Yoshizawa, Nature Commun., 5, 4662 (2014).
[文献4] M. Yamashina, M. Akita, T. Hasegawa, S. Hayashi, M. Yoshizawa, Science Adv., 3, e1701126 (2017).
論文情報
掲載誌 : |
Nature Communications (Nature姉妹誌) |
論文タイトル : |
Exact Mass Analysis of Sulfur Clusters upon Encapsulation by a Polyaromatic Capsular Matrix (分子カプセルの内包による硫黄ナノクラスターの精密質量分析法) |
著者 : |
Sho Matsuno, Masahiro Yamashina, Yoshihisa Sei, Munetaka Akita, Akiyoshi Kuzume, Kimihisa Yamamoto, Michito Yoshizawa* (松野匠、山科雅裕、清悦久、穐田宗隆、葛目陽義、山元公寿、吉沢道人*) |
DOI : |
- プレスリリース 硫黄ナノクラスターの“精密”質量分析法 ―分子カプセルの利用で、環状硫黄の安定化と選択的合成を達成―
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東京工業大学 科学技術創成研究院
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准教授 吉沢道人
E-mail : yoshizawa.m.ac@m.titech.ac.jp
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