外国語教育に造詣の深い斎藤兆史教授、堀茂樹教授、増本浩子教授の3氏を講師に迎え、外国語研究教育センター長の山崎太郎教授の司会のもと、講師陣による報告とディスカッションが行われました。
まず斎藤・堀両氏の報告では、今日「グローバル化」の掛け声のもと、母語と英語さえできればこと足りるとする、貧しい「バイリンガリズム」が教育に弥漫しつつあることへの懸念が表明されました。とりわけ印象に残ったのは、「各大学で『英語だけで卒業できる』コースの設置が進んでいるが、それは(意義はあるにせよ)自慢すべきものではない」という堀氏の指摘です。大学教育が、目指すべきは「英語だけ」ではなく、その先、つまり学生・留学生が希望すれば多言語・多文化を学べる機会を広く提供することであり、そこに大学が本来誇るべき豊かさ、真のグローバル化があるという主張は、説得力あるものでした。
両氏の主張の背後にあるのは、外国語とは“他者の母語”に他ならず、それを学ぶことは文化的な驚きの経験だ、という古くて新しい認識です。自らの殻を破って他者と出会うスリリングな体験こそ、本当の意味での教養に必要なもので、文明にとっても不可欠だということを両氏は重ねて強調しました。
一方、増本氏は、海外への研究者派遣事業に自身が携わった経験をもとに、言語と力の問題、国際会議で何語を用いるかは参加者の力関係に大きく影響する、という事例を挙げ、学問的議論のできる英語力の必要性を述べました。一見、それは先の二氏の主張と対立するようですが、実はそうではなく、ごく単純化すれば、「実学的な、ツールとしての外国語習得の支援」と「異文化・他者との出会いとしての、教養としての外国語教育」とは二者択一ではなく、その両輪が大学教育に必要だということは、3氏から異口同音に確認することができました。
ディスカッションは、外国語担当教員の役割、多言語国家スイスの言語教育の現状、訳読という教授法の意義など、多岐に渡りました。また「他者との出会いとしての外国語教育」という見方に対し、聴衆からは「『他者との出会い』というが、大学教員自身はともすると“オタク的研究者”で、『他者』に開かれた姿勢をもっているといえるだろうか?」という質問が出され、会場が沸く場面もありました。
今回の講演会は、狭義の外国語教育のみならず、「大学とは、言語とは何か」について考える刺激と材料と得る機会となりました。このような機会を通じ、外国語教育の今日的意義を内外に向けてアピールすることの重要性を再認識するとともに、このような企画が今後も開催することされてゆくことが期待されます。